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小早川隆景ゆかりの寺を守る住職 東日山 法常寺住職 神原 祥弘さん

東日山 法常寺は竹原小早川氏の菩提所として建立され、三原城築城に伴い西の砦として移築したとされる曹洞宗のお寺です。小早川隆景とも縁があり、隆景が死去した時に葬儀が行われ火葬された場所でもあります。
境内からは三原の町が一望でき、三原の寺社めぐりやお寺のがっこうというイベントでは写経や坐禅体験をされた時には、境内から眺める三原の景色も参加者を楽しませました。

夢中になれるもの

取材で通された部屋の一角には三原の歴史の本や、禅に関する書籍がずらり。ご住職の神原さんは法常寺と縁のある小早川隆景のこと、お寺のこと。話し出すとどこまでも広く深く語ってくださいました。その様子からとても勉強熱心で歴史がお好きなのだなという印象だったのですが、聞けば子供の頃は国語と社会は大の苦手だったのだとか。得意な科目は数学。「父の青年時代はパイロットでして、自分もおぼろげながらパイロットを夢見て日大理工学部の航空宇宙専修コースに進みました」当時、日大理工学部では木村秀政という飛行機の第一人者の先生がいらっしゃり、大学の卒業研究で人力飛行のチーム(※1)を作っていました。「木村先生は飛行機が好きな学生たちに設計、製作、飛行実験など全てを学生主導でやらせてくれました。卒業研究の11人のメンバーは実に面白い人が多かったです。私はプロペラ担当として、それぞれの持ち場の仕事をこなしました」

そんな青春時代を過ごした神原さんはパイロットを目指して航空大学校を受験。筆記試験には受かりましたが身体検査で目が悪く、パイロットの夢はあきらめざるをえず、大学院を卒業してからは、三原に戻り技術系の仕事に就きました。

(※1)その頃の人力飛行は日本大学の卒業研究で、1976年5月に600mを超える飛行を達成!その後1977年1月2日に日本航空協会公式立会人の元、加藤隆士の搭乗で2093.9m、4分27秒8の飛行に成功し、当時の世界記録を更新した(出典:ウィキペディア)

お寺の息子として

実は子供の頃は父の仕事であるお寺の事に興味がなく、宗派も「曹洞宗?何?」という感じだった神原さん。父も「お寺は師弟の間柄でなるものだから、子供が跡を継がなくてもいい。自分の人生を生きればいい」という考えだったので、寺を継ごうという気は全くありませんでした。寺は世襲制と思われがちですが、曹洞宗のお寺は必ずしも血縁というわけではなく、師匠から弟子へ継いでいくものなのだとか。お寺と向き合うきっかけになったのは父の同窓生だった愛媛県の随応寺(ずいおうじ)の楢崎一光住職の坐禅会へ参加したこと。神原さんは、肩までかかるロングヘアの若者で、「今考えたら失礼だけれど、住職にお寺さんって結婚できないの?とあけすけな質問もしましたね」そんな神原さんに「修行をしていたら弟子たちが子供みたいなものだからねえ」と気さくに返答する楢崎住職と話すうちに、お寺のイメージが変わったそう。三原に戻ってからは、父と共にお寺の仕事も手伝っていましたが、父が亡くなったのをきっかけにお寺を継ごうという想いが出てきた。とはいえ、法常寺は竹原小早川家の菩提所でもある由緒あるお寺ですので、きちんと修行を積まなければ住職を継ぐことは出来ません。楢崎住職に相談したところ、仕事を続けながら長期休暇の時に修行を積み、時間はかかりましたが6年の歳月を経て法常寺住職になることができました。

禅寺での修行

修行では箸の持ち方、衣の着方、食べ物の調理の仕方など事細かく教えられました。「皆さん、お寺は野菜しか食べないと思われがちですが、肉も食べますよ。猪をいただいたら猪を食べますし、大根をもらったら大根が食卓に上ります。禅の考え方に『不殺生』というものがあり、これはすべてのものには命が宿ります。猪や鳥だけではなく、野菜にも命が宿っています。私たちはそれをいただいて自分の命にしている。そういう考え方なのです」なるほど、素材の命を無下にせず活かしきってやることが命を殺さないということだろうか。「寺では生野菜は食べません。なぜかというと、集団で生活しますので食中毒が出たら大変だからです。また禁葷食(きんくんしょく)といってニラ、ネギ、ニンニクなどの匂いの強い野菜は食べません。これも修行をするのに隣の人が臭かったら気になって修行に身が入りませんよね。禅の考え方はとても理にかなっているものなのです」とわかりやすく説明してくださいました。

法常寺の歴史

法常寺住職である以上、法常寺の事を知らなければならないと、歴史に詳しい友人と一緒に寺の歴史も調べました。法常寺は以前は多い時は本寺(ほんじ)、末寺(まつじ)合わせて7~9ケ寺あったので、本寺、末寺を訪ねれば情報収集が出来るのでは?と寺を巡り歴史を調べることにしました。そこでわかったのは法常寺は小早川隆景亡きあと、他の城主たちの供養はしなかったこと。土葬が多かった時代には珍しく、小早川隆景は火葬をされたことなどでした。「あの時代になぜ隆景は荼毘(だび)にふされたのか。他にも隆景亡きあとに隆景に関する手紙などは燃やされてほぼ残っていません」どうしてなのか謎が多くて興味深いですね。「話が長くなってしまって申し訳ない」と話す神原住職には打ち込むものが変わっても“面白い!好き!”という探求心がにじみ出るようでした。

小早川隆景が死去した時に葬儀が行われ火葬された場所には、今も小祠が残されています。

文:西本智加

この記事は、2020年3月発行の「シニアNOWNOW Vol.2」に掲載したものです。
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